2014年04月01日

絶対音感についてのページを修正しました♪

かなり昔に書きました「絶対音感について」という記事を修正しました。

修正しましたのはこちらのページ内の、
「絶対音感の必要性」というリンクの、下の方の文面です。


私自身、絶対音感がある為に、聴いた曲をすぐにピアノで弾けたり、
歌をすぐに歌えたりする事に「すごいね〜」などと言われ続けていた時期がありました。

しかし、絶対音感がある為に「心で音を聞き分けられていない」という事に気付いた時、
私はすごくない!!と自分を責めたりした事もありました。

絶対音感があっても、音色の違いを聴き分けられない、
そんな自分に葛藤していました。

その頃の想いも付け加えさせていただきました。

かなり過去に書いた文面なので、
ちょっと個人的主観がかなり強い文面になっている箇所もまだあるかと想います、すみません。。。
徐々に修正してまいります♪

posted by 美麗 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対音感と相対音感

2006年10月28日

レッスン風景〜絶対音感クラス〜

ご無沙汰しております。
少々多忙だった為レッスン風景の更新が遅れました。
少し落ち着いて来ましたので、これからまた少しずつレッスン風景を綴って行きたいと想いまするんるん


今日書くのは絶対音感の生徒さん。
だいぶいろんな音を聴き分けられるようになって来ました。
1つ不安だったのは、ここへ来てある1つの和音だけ覚えていなかった事でした。
でも1週間、こういう練習をして下さいとお家の方にお願いをして、やっていただけたようだったので
なんとか覚えたみたいで、良かったです。
それを覚えないと相対音感が付いてしまう可能性がありました。
年齢的にももう6歳なので、相対音感が付きやすい年齢です。
1度相対音感が付いてしまうと、もう2度と絶対音感は付かなくなってしまうので、
時間的タイムリミットがあります。
もうしばらく様子を見て、全部の鍵盤の音を絶対音感で聴き分けられるようにさせてあげたいですね。




今年度の生徒さんは募集しておりません。
来年6月以降の募集となります。
無料体験レッスン、ご質問は年内もお受けしております。
posted by 美麗 at 09:56| 絶対音感と相対音感

2006年08月11日

音楽の質と心♪

絶対音感について

(5)(左脳で聴く「絶対音感」から 右脳で聴く「心」へ)


ツィメルマン氏の講演より♪

2006年5月。
ピティナセミナーでツィメルマン氏の講演を見に行きました。
行って良かったです。。。貴重な貴重なお話を聴けました。

講演の中身はあまりこういう所には書いてはどうかとも想いますので
その1部だけ、あくまでも私が感じた事として
書かせていただきたいと想います♪



あなたはどう弾きたいですか

1部では関本さんの演奏♪曲はショパンのソナタ♪
出だしの音でぐっと来て涙がほろり。。。
音楽を 私の耳で絶対音感的な左脳ではなく
心である右脳で聴けた瞬間だったのかも知れません。

演奏後、ツィメルマン氏によるちょっとしたレッスン♪
その時、氏は最初の出だしの部分について、
特にこだわってお話してらっしゃいました。
「出だしのこの音は、『あなたはどう弾きたいですか』」という事に
こだわっていらっしゃったのです。
何が正しいとか、こうしなくてはいけないとか、
そういう事が問題ではなく、評価したい訳でもなく、
「あなた自身にとって大切な音は、この出だしのどの部分の音ですか」
という事をしきりに聴いてらっしゃいました。
ところが、演奏者の関本さんは、どうも自分自身がどう弾きたいという
明確な答えが出せなかったように見受けられました。。。
って、これはすみません、私の勘違いで、もしかしたら、
答えはあったのかも知れないけれど、上手く伝えられなかっただけかも知れないし、
あるいは時間がなくて言えなかっただけなのかも知れない。
でも、関本さんは「このフレーズがどうだから」とか
そういう事ばかりおっしゃって、「私はこうでした」とは
明確に答えなかったように見えました。
これ。とても大切な事だと想います。
生徒さんに「今あなたは何を考えて弾きましたか」と「聴く」事。
私も時々生徒さんに聴くんですが、たいていの場合は
「何も考えずにただ弾きました」と答える人が多いように感じます。
つまり、「楽譜通りに書いてある音を並べて弾いただけ」と。
もちろん、その楽譜の冒頭の部分に、アーティキュレーションが書いてあれば
その通りに弾こうとしたかも知れないし、
ピアニシモで書いてあればそのように弾こうとしたかも知れませんが。。

でも、重要なのはそういった事ではないように想います。。。







クオリティの高い音楽は良い音楽か?


2部では、ツィメルマン氏の講演。
そこで、大変面白い話を聴けました。
それは、現在のエレクトロニクスの技術と録音について。


ちょっと話がそれますが。
私、自分のオリジナル音源を今ネットでアップしています。
これ、ちょっと前までものすごい音が悪かったんです。
当時から録音技術なんていうものを知りませんでしたから‥‥
今でも充分とは言えない環境で録音しています。
マイクだっていいものじゃないから雑音も入るし、
外から聴こえて来る子供の声だって時には入っちゃう(笑)
その音質がとっても悪い状況でさらに編集ソフトもなかった頃は、
本当にクオリティの低い音源をアップしてました。

その音源を聴いて、とある数人の方からご指摘を頂きました。
もっと音が良い状態で聴きたかったですとか
こういう事をすればもっと良くなりますよとか
自分がアレンジすればもっとクオリティが高くなりますよとか

その一方で
音質が悪くても中身がいいとおっしゃって下さった方もいました。

どちらが良いとは、はっきり言えません。
どちらも 正しいと想います。
あるいは、どちらも間違いかも知れません。







音楽を「お持ち帰り?」


ホロヴィッツやルービンシュタインらの時代には、
いい録音機器なんてありませんでした。 観衆は、演奏会に出かける事によって、
その「音楽」という「時間」を「共有」出来る事の喜びを感じていた事でしょう。
しかし、録音が出来るようになり、音楽が「持ち帰り」出来るようになり、
聴きたい時にいつでも聴けるようになり、音楽を「とっておく」事が出来るようになり、
人々は、その「音楽という時間を共有する事」よりも、
「雑音のない環境の中でより『正確に』音楽を再現する事」に
耳を傾けてしまったのだと氏は言います。

ルービンシュタインの当時の「生演奏」は、楽譜通りではありませんでした。
レコードがありませんから、誰も「正解」を知りません。
ですから、今のように「譜読み」をたくさんして楽譜通りに演奏する事もなく、
さらっと楽譜を見て、本番では即興のように自分で感じたように演奏していたそうです。
しかし、「正解ではないから」といって、人々の心に通じ得るものがなかったと言い切れるでしょうか?
その生演奏は、その時その瞬間、でなければ、味わえないもの。
そこで「聴く」事に意味があり、価値があるものなのではないでしょうか。

ルービンシュタインの演奏CDを3種類聴くと、
その違いがはっきり分かるそうです。
はじめて自分の録音演奏を聴いたルービンシュタインは、
その不正確さに慌てて、もう1度録音し直します。
さらにもう1度。
3度目になりますと、その演奏は「完璧」ではありますが、
「心」や「音楽性」がなくなってしまいました。
1回目の演奏は、誰も真似する事の出来ない素晴らしい演奏だったのです。






ダイナミズムは「大音量」ではない


ホロヴィッツの時代には、いわゆる「海賊版CD」が流行っていました。
つまり、コンサートで勝手に録音してしまうCDです。
今ではそんな事出来ませんし、違法行為にあたりますが。
そんなホロヴィッツのコンサートで、ツィメルマン氏のとなりに座っていた人が、
まさにその勝手に録音してしまう人だったそうです。
音楽を「心で聴くのではなく、マイクで聴いている人」だった訳です。
しかし、その人は本番になってもやけに慌てています。
氏が「どうしたの」と聴くと、その人は泣きそうになって
「せっかくのホロヴィッツの生演奏を録音出来るチャンスなのに、
マイクが壊れてしまって録音出来ないのです」と言ったそうです。
見てみると、確かに針が全然動いていない。

しかし、その時のホロヴィッツの演奏は、決して「大音量」ではないのに
壮大な演奏だったそうです。
全体的には「mf(メゾフォルテ)」くらいなのに、その演奏はとても壮大で、
素晴らしい演奏だったそうです。
ダイナミズムとは、決して「大音量」ではないのですね。







音を「心」で聴いて、感動したい♪


マイクを使った音を聴く「耳」と
心で感じる「耳」と
どちがら良いとは 一概には言えません。
音の「質」ばかりを気にする音楽と
音から語られる「感情」を時間の流れと供に感じ取る事の出来る音楽と
どちらを選ぶかは人それぞれでしょう。


しかし、これは私も同じ事を感じたのですが、
観衆は「楽譜通りに書かれた音の文章を聴きたい訳ではない」んですよね。
その音から感じ取られる感情を「共有」したいんですよね。
音楽という「時間芸術」の中で。


彼の話に、私は1人で大袈裟に、大きく首を縦にふってうなずいていました。
後ろから見たら「なんでこの人はこんなに1人で納得してるんだろう」と
想ったかも知れません。

音楽を心で感じる事。
こう書いてあるから弾いたとか、こう弾きなさいと言われたから弾いたとか、
そういう事は重要ではないんです。

こう書いてあるのを受けて、「自分自身がどう感じてどのように演奏したいのか」
が重要なのだと私は想います。

演奏者の心を映し出す 音楽という鏡。
自分がこれから弾く曲を 心から演奏する事が出来たら
音楽を心で聴いて心で感じる事が出来て、
はじめて、感動するのではないでしょうか。






posted by 美麗 at 10:21| 絶対音感と相対音感

絶対音感の欠点その2

絶対音感について

(4)絶対音感の欠点その2


最相葉月さんの「絶対音感」という本を読んだ。
ベストセラーになった当時は、この本にはまったく興味がなかった。
絶対音感に対する事はある程度知っていたし、
指導法も身に付けていたからだ。
今改めて読んでみて。
面白い。。
というか、もっと早く読めば良かった。
私が、自分の「演奏法」で絶対音感という壁にぶつかった時にもし読んでいたら、
あっという間に解決されたかも知れない。
本によれば、絶対音感保持者がその「壁」にぶつかった時、
たいていの人が自分の持っている「絶対音感」を
「捨てなければならない」とある。
※(すべての人が「捨てる」という言葉を使ったかどうかは分かりません)
 (また、絶対音感保持者で、その音感が「苦」と感じた事の無い人は、はじめからある程度柔軟な音感=いろいろな音程でもその音を受け入れられる音感をも持ち合わせていた人と考えられる)
私も「捨てなくては」と感じた一人だった。でも、その混乱と複雑な心境は相当なもの。
自分の中にある記憶の一部を消さなくてはいけないのと同じようなものだからだ。
例えば「1+1=2」という計算式を忘れろ、というのと同じようなもの。
実際には無理な話なのだ。
しかし、その壁から脱出出来た時の開放感と言ったらない。
これほど音楽の世界は素晴らしく広いものだったのかと、
自分の聴感覚を疑うほど。
この感覚をもっと早く知っていて、
もっと早く音に結び付けられていたら‥‥‥。
あの時の壁にぶち当たった時の辛さも、
あっという間に消え去っていたかも知れない。。。



過去に「与えられた」音感

まずは私の過去の話から。。。
母のお腹の中にいる時から、さんざんいろんな音を聴かされていたようで、
産まれてからは絶対音感教室専門の音感教育を受けて来た。
夜、寝る時には毎晩クラシックのレコードを聴かされていたし、
おかげでその頃鳴っていた曲が流れると、
すぐにその曲をピアノで弾けてしまうし、
何調の曲で最初の音は何の音で、などなど、簡単に分かってしまう。
しかし、私の場合はそれらが「自然」と身に付いたものではなく、
ある一定期間(幼児期から6歳頃まで)に特別な「訓練」を受けて
身に付いたものである。自分が自ら「絶対音感が欲しい」と
望んだ訳ではないのだ。
私の絶対音感は、「与えられた音感」なのである。

小さい頃はそれが「弊害」になる事など、1度もなかった。
まして小さい頃から作詞作曲をして遊んでいた私には、
むしろ絶対音感があった方がやりやすかった。
音楽が理論的に理解出来てしまう(実際には音楽理論についてはまったく知らないのに、耳だけで分かってしまう)ので、
例えばこのメロディーに相応しい和音伴奏がすぐに分かるし、
逆に相応しくない音は不完全に聴こえるので、絶対に使わない。
頭の中でその「音」が何の音か分かるので、
作曲していても「このソロの部分はギターの音で」とか「ドラムはこんな感じ」とか、
頭の中でバンド演奏まで出来てしまう。
覚えたオーケストラの曲も頭の中で「再演」する事が出来る。
出だしはバイオリンで、続いてチェロの音、クラリネットの音、などなど。

一見すると、やっぱり「絶対音感持ってる人って すごいんだ」と
想われてしまいそうだが。。。



最初の弊害

最初の弊害は、一度ピアノをやめて
大人になってから再開したピアノレッスンの中で起きた。
その頃師事していた先生には、とにかく「音色」を求められていた。

『きれいな音で!その音は汚い音!』
『今の音とさっきの音とは違うでしょ!』

今の音とさっきの音?同じ「ド」の音じゃないの、何が違うの。

絶対音感は、「絶対的に聴こえる」もの。
「ド」の音は「ド」以外の何者でもないのだ。
なのに、先生はさっきの「ド」と今の「ド」は違う、と言う。
私には理解出来なかった。



ただ「並べられただけ」の音楽

もう1つ。
その頃の私の演奏は、非常に冷たくて固くて機械的な演奏だった。
絶対音感はすべての音が「ドレミ」に聴こえてしまうので、
言ってしまえば その「音」が「きれいな音だろうが汚かろうが、
とりあえず鳴っている事に満足してしまう」のだ。
音に気持ちが入ってなかったり、ぶつけたような音になってしまっても、
ハッキリ言って関係ない。
その「音」が「何の音」か分かれば、それで解決してしまう。
一通り楽譜と同じ「音」で「並べられていれば」
それが私にとっての「1曲の仕上げ(完成)」だと想っていた。
音の高さの違いや♯♭の音などはすぐに分かるのに、
微妙な音の長さの違いや微妙な強弱、
また音の色合いの違いなどはまったく分からなかった。
聴こえて来る音楽はすべて「ドレミ」という言葉で聴こえて来るから。
そこに音の「色調」とか「くすみ」とか「色彩」なんてものは存在しなかったのだ。
でも、楽譜通りに演奏された曲が、果たして素晴らしい芸術であると言えるだろうか?
だったら、例えば楽譜通りに記された音符を、何か音響の機材に打ち込んでいって、
そのまま「音を流す」事が出来れば、それは「完成」と言えるという事になってしまう。
果たしてそうだろうか?

音楽をやっている人に限らず、例えば絵を描く人、歌を歌う人も同じではないかと想うのは、
何か自分が言いたい(伝えたい)事があって、
それを「音楽」や「絵」を使って「表現」したくなるのだと想う。
人によって伝える手段は異なるものの、
やはりそれを「表現」したい、つまり、
「誰かに聴いてもらいたい」と願っているのではないだろうか。
ならば、機械的に流れてきた「音楽」から、
何か気持ちが伝わって来るかと言えば、おそらく来ないであろう。
人間的な感情や愛情、複雑な心理など「打ち込まれた音」にはないであろうから。



音楽とは??

絶対音感を持っている私が、とりあえず「音」を並べて弾いた「音楽」に満足してしまうのは、
難しい計算式の答えを出した時と同じような感覚だった。
とりあえずこの拍子にこの音(数字)を入れて、並べて、
最後に楽譜通りに弾くという「答え」を出す。
出した時は、当然スッキリしている。
このスッキリ感に私はいつも満足してしまっていた。

絶対音感は、そのほとんどを『左脳で聴いている』

これを最相葉月さんの本で読んだ時には、正直ショックだった。

本によれば、毎回毎回左脳で聴いているとは限らないという。
例えば「知っている曲」を聴いている時は左脳で、
「知らない曲」を聴いている時は「右脳」で聴いている事が多いと言うのだ。
まさに私はこの通りである。
知っている曲はとても聴きやすいし、分りやすい。
その曲の調性も分かるし、次に出て来るだろう音も分かる。
でも、知らない曲の時には、なんだか気持ちが「ふわぁ〜」っとするような、
浮いてしまうような感覚があるのを覚えている。
これが「右脳」の働きだったと考えると、すごく納得が行く。

しかし、ショックだったと言うのは、
音楽的感覚や感性は絶対に「右脳」だと想っていたので、
私自身、絶対音感がある事イコール、右脳が発達していると思い込んでいたからだ。
大きな大きな勘違いである。。
絶対音感は科学的にはまだ解明されていない事ばかりだと想うが。



多種類な絶対音感

でも、これらはあくまでも私だけの場合。
絶対音感保持者の中には、音がドレミで聴こえて来るだけではなく、
色や色と色の混ざりあいのように聴こえて来る人もいるという。
絶対音感は1種類じゃないと感じてはいたけれど、
とにかくこの本にはたくさんの人の経験談が多く載っていて、
これほどまでに聴こえる人によって変わるのかと驚く事ばかりだった。

絶対音感の持ち主であろう人の演奏は、だいたい聴けば分かっていたつもりだった。
1つ1つの音の粒が非常に「ハッキリ」と聴こえる人。音の強弱くらいしか音色の変化が見られない人など。。
私の過去の演奏などを聴くとそれがよくよく分かる。
ひと粒ひと粒の音が独立した1つの「音」なので、
その音が1つ1つまさに「独立して」聴こえるのだ。
縦に並んでいるという言い方もあるかも知れない。
粒がハッキリしていて、全体的に聴こえがいい。
聴いていても弾いていてもその方がスッキリ聴こえる。
速いパッセージも非常に粒が揃ってきれいに聴こえる。
でも、そこには「心」とか「暖かさ」とか「色合い」などはまったく聴こえて来ない。
まるで先ほども書いたような、機会が音を「流してる」だけの演奏なのだ。

あの故園田高弘さんが絶対音感があったとは、これには全く気がつかなかった。
数年前に園田さんのリサイタルを生で実際に聴いているのに、気付かなかった。
園田さんは、音がドレミで聴こえて来るだけではなく、
そこにいろいろな「色彩」が見えた、と言う。
園田さんは、音楽を「色」として捉え、そこに様々な色合いを重ね、混ざらせる事によって、
音楽を奏でていたのだと想う。
だから、ひと粒ひと粒が鮮明に聴こえる事もなかったし(色が混ざっているので独立していない)
演奏の流れも「縦」に聴こえる事はなく、横の流れに添った「時間芸術」に聴こえたのかも知れない。



音楽は計算式??

私と園田さんの「音感」の違いはこういう所にもあると想う。
ここでいう「違い」とはピアノ技術云々ではなく、
「耳」から聴こえて来る「聴感覚」の違いである事を改めて書いておきたい。。(^^;
私自身は、音楽が「ドレミ」という言葉でしか聴こえなかった。
なかった、というのは、今は「絶対音感の壁」を越えられたので、
世の中の全ての音が「ドレミ」に変換される事はなくなったという事であるが。。
でも、過去、それで本当の意味で心から「音楽」を楽しめていたのか?と聴かれると、
実際にはそうでもなかった気がする。

例えばピアノ発表会で子供たちがたくさんピアノやヴァイオリンを弾いたとして、
知っている曲が流れて来た時には「左脳」で聴いていたとする。
ピアノ曲で、誰かが1つ音をミスしたとしたら、私はその「間違い」にすぐ気が付く。
つまり、楽譜通りに弾くという答えが出るまでの「計算式」が合わなくなるのだ。
はたまた、小さい子がはじめたばかりのヴァイオリンでも弾いていたものならもう大変である。
私の頭の中はとたんに周波数、ピッチのグラフが出来上がる。
音が少しでも狂おうものなら、もう気持ち悪くて仕方がない。
ヴァイオリンは、例えばオーケストラやピアノなどと共演する時には、
例えばソロの時にはピッチを少し高く上げたり、
ピアノがメインならピアノよりもピッチを低く調弦したりと、
その時々その音によってピッチを変えて演奏する楽器である。
ピアノで絶対音感を付けた私は、ピッチが例えば『「ド」という引き出し』を、ある意味「記憶」しているので、
ドの引き出しと微妙に違う引き出しが出て来たら、それは「ドの引き出しじゃない!」と
頭の中が狂い出してしまう。
そんな時には、もう聴いていられなくなり、その場を離れるしか方法がない。
つまり、私なりの計算式で演奏されたものは「すごく上手」
それ以外は「上手な演奏じゃない」という、この2種類でしかなくなってしまうのだ。
それで本当に音楽が楽しめるのだろうか??

キーシンのピアノコンサートを聴きに出掛けた時である。
いつもすべての音が「ドレミ」に聴こえてしまう私は、
「今日はドレミじゃなくて、音楽として聴いてみよう!」と私なりに固い決意をしてみた(笑)
はじめのうちは音楽として聴けていたのだが、だんだん出来なくなり、
気が付けば「左脳」が「ドレミ」に「変換」するという作業を繰り返し行っていた。
私にはこれは出来ないものなのだろうか?



壁が崩れるまで♪

その時には諦めざるを得ないのではないかと考えた程だった。
そんな私が絶対音感の「壁」をうち破る事が出来たのは、本当にごくごく最近なのである。
きっかけは1つではなく、いくつにも重なったあらゆる異なった事柄が、
さまざまな方向から私の知識の中に入り込んで、
それらが最後に1つの「線」となり、見事に結び付けられた時だった。

まずは江口寿子先生の「絶対音感プログラム」で、子供達に絶対音感レッスンをしようと想いはじめ、
江口先生の「音はロケットみたいに飛んでくる」を読んで、音楽に必要なものは絶対音感だけではないという事を知ってから。
以前の私のピアノの師匠に、音楽の「縦ではない横の流れ」を教えていただき、
1音1音の微妙な「音色の違い」を教えていただき、
その違いを分かる為には何をやったらいいと研究をはじめ、
いわゆる相対音感の訓練や移動ドの練習、ソルフェージュの訓練、
いろいろなピアニストの同じ曲の聴き比べ、
古楽器(現在のピアノに調律されている平均率で調整されていない楽器、チェンバロやハープシコードなど)を聴く機会を作ったり、
(※絶対音感はだいたいこの「平均率」で固定された「固定ド」で訓練する為、
ピッチ(音程)がピアノと違うチェンバロなどは気持ち悪く聴こえてしまう)
数多くの演奏家のコンサートへ足を運び、自分の「耳」で「聴く」(脳で聴くのではない)事への習慣、
さらに現在の師匠であるルイ先生から、音楽を「頭」で感じるのではなく「心」で感じる事の大切さを教えていただき、
心で歌う事の必要性、楽譜の音を「並べる」のではなく、「意識」する事の必要性を教えていただき、
そして音楽という時間的空間の感覚を掴んで。。。
やっと壁が崩れた感じである。


与えられた音感は親からの「愛情」
壁にぶつかった時には、本当に「絶対音感なんていらない!」と
自分の耳を捨てたくなったけれど、
欠点ばかりがある音感ではない。
最相葉月さんの本で、その事を改めて実感します。
それと同時に、絶対音感がつかなかった人の辛さも身にしみました。
そして、この「親から与えられた音感」を、時には「必要ない」と
捨ててしまいたくなったその葛藤から、逃れられた気がします。
誰の為でもない、私の為に絶対音感をつけて「くれた」のだと、
想えるようになりました。
これが親の愛情だったのかと

今、改めて、「絶対音感をつけてくれて、ありがとう」と
ようやく言える気がします。

でも、もしも「絶対音感は音楽をやる上で必要なものですか」と聴かれたら。
私はこう答えます。
絶対音感は、音楽をやる上で絶対に必要な音感ではありません。



音楽を「心」で感じたい♪
ある絶対音感保持者である音楽家が、それまで聴こえて来るすべての音が「ドレミ」に聴こえていた事に苦痛を感じ、
一時音楽から離れてしまいます。
ところが、ふとある時から、それまでのような「ドレミ」で聴く事をやめて、柔軟な耳で音楽を聴くようになり、
はじめて、あるプロの演奏を聴き、感動し、涙を流したという話があります。

その絶対音感保持者は、きっと、音楽を、「ドレミ」ではなく、「心」で感じる事が、
出来たのだと想います。

私が去年、綾戸智絵さんのライブを聴いて、生まれてはじめて、
感動し、涙を流したあの時。
私も、音名ではなく、「心」で 感じる事が出来た時だったのかも知れません。
(その時の日記記事はこちら

音楽を心から楽しむ為に。
音楽を、「心」で感じる為に。




posted by 美麗 at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対音感と相対音感

絶対音感の欠点

絶対音感について

(3)絶対音感は絶対に必要なのか


絶対音感の欠点
まず、私の絶対音感の一番の。。。失態をお話します。。。
それは私がヤマハの指導グレード3級を受けた時の話。
実は私、4度目でやっと合格したのでした。
1度目は全体の点数があとわずかのところで落ちて。
2度目は点数の悪かったものだけ受ければいいんだけど。
ここではあえて 自信のあるものを受けようと想った。それが間違いだった。。
3度目は。。その自信のあるものの屈辱を果たそうと、
3度目の正直で受けてまた落ちて。 最後の4度目では、自信うんぬんはもう捨て切って、改めた気持ちで受けに行って、ようやく合格した。


「倍音」のない音の世界
最初の試験で、一番点数の低かった「混声合唱編成」を、
もっと上の点数狙って受けても良かったのかも知れないけど、
ここでは一番自信のあるものを。。。もっと高い点数で、、、と。。。
一番自信のあった「はず」の聴音。
2度目はこの試験を受けたのです。
ここへ来て、がくっと崩れました。
この聴音は、8〜12小節で、メロディーとベースと、コードネームを書き取るもの。
なんだけど、なぜかヤマハのこの試験は音源がエレクトーン。
なので、右手のメロと左手の和音と、足のベースで出来てる曲です。
メロディーは普通に分かりました。
そしてそのメロに合ったコードネームも書くんだけど、それも出来ました。
一番問題だったのは、ベース。
何が問題だったかって。それは音域です。
私はたぶん、1オクターヴ上で音を書いてしまったと想います。。。
ピアノの聴音でもそうだけど、やっぱり音が「高い方の音」って 普通に聴いても聴きやすいものです。
逆に低音はとっても聴き取りにくい。
「倍音」のない音がこんなにも聴き取りにくいなんて。。
はじめてでした。
絶対音感は、平均率で調律された楽器、ピアノで訓練する事が多い中、
普段聴き慣れないエレクトーンで音を聴き取るのは、
非常に困難な事だったのでした。


聴こえない絶対音感
でも、4級の試験でも、1番最初に3級を受けた時にも、そんなに感じなかったことでした。
それなのに、なぜか今回はベースの音が聴こえて来ない。。。。
いや、実際には聴こえてはいるんです。なのに、音域が。。
まったくと言って言いほど、分からなかったのです。
この音はピアノの鍵盤で どのあたりの低さの音?
それが まったく分からない。。。(汗)
全部で7回演奏されるのに、最後まで分からなかった。。。
音は合っているだろうけど。。。。
これが屈辱の2度目の試験。
3度目では、絶対挽回してやる!くらいの勢いで臨んだんです。
ところが、またしても分からない!!!!
7回聴いてもまだ焦ってる人は、私くらいだったのではないでしょうか。。

ここまで聴こえないと、もうある程度勉強していかないとダメですね。
その当時習ってたT先生に相談しまして、
教室の玄関にあったエレクトーンを試奏させてもらったのです。
そこで、ベースの音をとにかく何度も何度も確認して。
そして4度目の試験当日。
落ち着いて、今度は大丈夫、と言い聞かせながら臨みました。が、
いざ聴いてみるとやっぱり分からない!
でも今回は冷静でいられました。
そういえば、以前私ったらエレクトーンを少しやってたのです。。。
それを急に想い出して(早く想い出そうよという感じですが)
自分がこの曲をエレクトーンで弾いているのだ!と想像してみました。すると、エレクトーンのベースでこの音域(書いた音域)はあり得ない!
そう確信した私は、試験時間残りあと数分のところで、オクターヴ下に書き直したのです。。
そう、またしても私はオクターブ間違えて書こうとしていたのでした。
そして、やっと合格。
でも、正直、「聴こえない」と感じたのははじめてでした。
分からないのです。本当に。。。
絶対音感は、すべての音が聴こえる訳ではないんですね。
もちろん分かる人には分かるでしょうけど。。
絶対音感は完璧なもの、と 想われがちなんですが。
決して完璧ではありません。
この欠点に気が付いた時。
自分の耳を。。。本当に捨てたくなりました。



音楽を「心」で感じたい♪
しかし、その「壁」にぶつかった時、その壁を崩そうとする自分がいた事は、
今想えば本当に良かったと改めて実感します。
私がその壁を崩そうと決められるまでには、さまざまな事があり、
さまざまな周囲の教えと支えがあり、
それを受け入れる柔軟な心がなければ、とても受け入れられるものではありませんでした。
この「心」とは本当の意味で「人間の感情」そのものであり、
一言ではとても説明しきれるものでも、科学的に証明出来るものでもありません。
次は、この「心」について、お話したいと想います。

(絶対音感について(4)に続く)



posted by 美麗 at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対音感と相対音感

絶対音感の必要性

絶対音感について

(2)絶対音感は絶対に必要なのか


絶対音感は本当に必要なのでしょうか‥‥‥

などと言いながら、実は私は絶対音感の生徒さんを抱えております。
「絶対音感は本当に必要か」という疑問を投げかけつつ、
それでもどうしても子供には絶対音感を付けさせたいという
親御さんには、こちらの疑問をすべてお話した上で、
納得していただいた方のみ、お引き受けしております。
しかし、未だに疑問に感じてなりません。
絶対音感は本当に必要なのでしょうか?


絶対音感があると何が出来るのか

実は私自身、絶対音感保持者であります。
一度聴いた曲はすぐに覚えてしまって、
すぐにピアノで弾けてしまいます。。。
音楽の構造が耳で理解出来てしまうので、理論を学んだり、
楽譜を見ることが大変苦痛に感じます。
楽譜に正面から向くことが苦痛になるのです。
これから新しい曲を弾こうとする時にはもちろん楽譜を見ますが、
それも3回くらい弾いたらもう覚えてしまいます。。。
そのかわり?(笑)もしも間違えて譜読みしてしまったら大変です(笑)
その間違えたまま 覚えてしまいます(^^;
先生に指摘されるまで 間違いに気付かなかったりなんて
しょっちゅう。。(汗)
そうなのです、そうやって覚えてしまうので、
楽譜が重たいのです、苦なのです。。
楽譜を読むのが辛いのです。
音を耳で聴いて覚えて弾いてしまう方が、断然ラクなのです。
私はしょっちゅう暗譜で練習してました。
最近はまずは「楽譜、譜読み」から「音」につなげようと
出来るようになったのですが、その前までは本当に苦しかった。。


絶対音感の欠点

これは 絶対音感の欠点だと想います。
とにかく聴いた音をすぐに覚えてしまう。
それも、一音一音全部「ドレミ」に聴こえるので、
絶対音感を持った人の演奏は、おそらくほとんどの人が
「一粒一粒ハッキリしてる」演奏に聴こえるのではないかと 私は感じる事が多いのです。
(これは 私の勝手な感想です。)
一つ一つの音がその固定した「音」そのものなので、
一粒一粒が「独立」してしまうんですね。
だから、ハッキリ聴こえるような気がします。


本当の「音楽」とは?

でも、音楽は一つ一つの音をただ無造作に並べただけでは
「音楽」とは言えませんよね。
そこには一つ一つの音がお互いに関連し合って、
その並びの中に一つのアイデアが生まれてくるような、
その音がどうしてそこにあるのか、それはすごく意味の深いもので
前の音があったからこそ この音があって 
さらに次の音へつなげるのにも意味があって
ここまで理解するのに。。。数十年かかりました。。。


絶対音感持ってるって すごいことなのだと想われがちですが、
それは違うと私は考えています。
絶対音感は、音を「左脳」で聴きます。
音楽感性に非常に重要な右脳で音楽を聴く事が出来ないのです。
ですから、時に絶対音感は、音楽を「心から楽しむ」ために
邪魔な存在になってしまう場合があります。

※絶対音感所持者が必ずしも全員そうだとは限りません※
※あくまでも個人的な主観で書かせていただいております※


音楽を心で感じるには?

絶対音感があるから すごいんじゃないです。
絶対音感があっても すごくないんです。
絶対音感は絶対的に必要なものじゃない。
江口先生のおっしゃるように、「魔法の杖ではないんです」
私はすごくないんです。
いくら耳がよく聴こえても
いくら聴音がすばらしく出来ても
その音楽を「心」で「感じて」、自らの心で「演奏」して、
その曲の裏に深い意味合いが浮かんで来なければ。
演奏するのは、先生じゃない。私。
演奏するのは、私の指じゃない。私。
演奏するのは、私の耳じゃない。私なんです。
私の心。
音楽を心で感じたい♪




posted by 美麗 at 10:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 絶対音感と相対音感

絶対音感とは

絶対音感について

(1)絶対音感と相対音感



絶対音感とは

ある与えられた音が瞬時にドレミで「何の音」と
答える事が出来る能力です。
幼少期(2歳から6歳頃)までの間に訓練すると
身に付ける事が出来ます。
中には生まれもってその音感を持ち合わせた人もいます。
絶対音感を持っていると、1つの曲を2〜3度聴いただけで
曲が理解出来るようになり、暗譜なども得意になります。




相対音感とは

ある与えられた音が何の音であるか知った上で、
次に与えられた音が何の音であるか、答える事が出来ます。
最初の音が分からないと次の音も分からない事が
大半なのですが、音感のレッスンを重ねて行くと、
最初に聴いた音も何の音か、答えられるようになります♪
そしてこの音感は、大人になってからでも
身に付ける事が出来る音感です。




絶対音感を付けさせたい!

よく小さいお子さまをお持ちの方から、
絶対音感を付けさせたいとご要望をいただくのですが、
私の考え、絶対音感は「クラシックピアノ」には
必要ないのではないか、と考えます。
なぜなら、絶対的にしか分からない音感ですので、
例えば「ド〜ド〜」と同じ音を2回続けて弾くような時に、
その演奏技術として、最初のドと次のドは、
同じ高さのドであっても違う音色で弾きたいという場合が
出て来る事があります。その時に、絶対音感の持ち主は
「同じドなのに違う音色で」というのが、分からないのです。
最初を大きく、次を小さくという強弱があれば分かるのですが、
強弱は付けずに、という場合に、その違いが分かり難いのです。
「ド」は「ド」以外の何者にも聴こえないのが絶対音感です。
ドはドでしかないのです。
そのドを、違うように弾くというのは、
絶対音感の人には大変理解し難いものなのです。




同じ「ド」を違う音色でなんて‥‥

そんな事出来るの?と疑問に想われる方もいらっしゃるかも
知れませんが、私は出来ると想います。
ピアノという楽器は、長い歴史の中で研究に研究を重ねて、
より豊かな音色で、よりダイナミクスな表現を、と、
数多くの音楽家、研究家により開発された楽器です。
かつてのハープシコードやチェンバロとは違い、
鍵盤を打鍵するスピードなどによって、
その音色の違いを付ける事が出来るのです。
その名の通り、まさに「ピアノフォルテ」なのです♪




相対音感を目的とした音感レッスン♪

その音色の違いを聴き分ける為のレッスンとして、
当教室では「相対音感」を目的とした音感レッスンを
行っています。(これは幼児だけでなく、小学生や中学生、
大人の生徒さんなどにも行っています。)
そのレッスンの内容の1つに、「歌う事」があります。
歌う事によってその「音」を自分の身体の中に
取り入れる事が出来るようになります。
音を自分のものにするのです♪




posted by 美麗 at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対音感と相対音感